懐かしい空港に降り立ったとき、会いたい人の顔が頭に浮かんだけれど、ほとんどの人には連絡ができなかった。なんとなくもう会ってくれない気がしたから。
1年ぶりに訪れたタイは、相変わらず人混みでごった返していて、僕が知っているタイと少しも変わっていなかった。日本の人もちらほらいて、「海ばかり見ていると人に会いたくなるし、人ばかり見ていると海が見たくなる」という村上春樹の小説のフレーズを思い出した。
そういえば今年はまだ海に行けていない。日本に帰ったら、好きな人たちと海を見にいこう。
いろんな国を訪れた旅人が「やっぱりタイが良かったよ」と言っているのを耳にすることがある。
僕が初めてタイに魅力を感じてバンコクを訪れたのは宮本輝の小説『愉楽の園』を読んでからだった。本当にいい本に巡り合うと、その後数年間は頭の中をフレーズたちが不意に現れて踊り出すことがあるのだけれど。僕はもう何年も『愉楽の園』の余韻に後ろ髪を引かれている。
バンコクの魔法にかかったのさ。…この国には、なんか媚薬みたいなものがたちこめてる。愉楽の園/宮本輝
ここは誰もが口にするほど、キラキラとした街ではない。
煌びやかに装飾された寺院の裏にはいくつもの小道が存在し、薄暗い路地裏では怒鳴りあう声が響き、裸足の子供がマネー、マネーと袖を引く。高層ビルの隙間にすら、家を持たない人の生活はあり、ゴミと埃にまみれる穴だらけの道路で、小学生にもならない子供が煙草を売り歩く。
何度も訪れたこの国で、失望もしたし、無力さも痛感した。それでも幾度となく訪れた旅の中で感じたのは、すべての世界が美しくある必要はないのかもしれないということ。
見たくない景色もあったけれど、そこには忘れられない景色もあった。
音も匂いも届かない海中のサンゴを太陽は優しく照らし、ランタンの光に照らされチェンマイの街は少しだけ赤く輝く。
緑に囲まれたトンネルにその名の通り愛があふれ、何百年も前からある遺跡はその立ち姿で歴史を語る。
チェンマイに1週間だけ訪れる若者の群れは最後は霧散し、時間軸までこえたように錯覚させる街に銀色の寺院が映える。
それが全てでなくても、美しい世界は存在し、美しい景色はこの街に溶け込んでいる。
人も同じで、言葉の通じない国で優しくしてくれる人がいて、
身振り手振りでしか感謝の気持ちを伝えれない僕のめちゃくちゃな表現を、
それでもしっかり目を見て受け止めてくれた。
全員がそうでなくても、優しい人はいて、タイを歩く僕たちをこの国はいつでも微笑んで見守ってくれる。
タイで待ち合わせのカフェを探すとき、アソークのカフェを間違えて当時付き合ってた恋人に怒られたことをいつも思い出す。こんなふうにタイを歩いていると、今はもう関わりがないひととの思い出が多すぎて、どんな感情になるのが正しいのか、どんな顔をして歩けばいいのかがわからなくなる。
それでも、そういった”些細な出来事の数々”がこの数年間、足繁く通ったこのタイという国での事実を物語ってくれる。
数ヶ月ほど前に読んだ雑誌に「豊かさとは、誰かと分かち合った思い出を胸に生きること」という内容のエッセイが書かれていた。ただ覚えているだけの”些細な出来事”と”思い出”はなにが違うのだろう。分かち合える人がいたら、それは僕の中で思い出になってくれるのだろうか。その答えが知りたくて、今日もこの街をゆっくりと歩く。
旅をすればするほどこの国のことを好きになるし、歩みを進めれば進めるほど、帰ってきたい場所も増える。すれ違う人はこちらを見て微笑み、店の人からの客引きの温かさや言語の違いが日本とは違うのだと教えてくれる。
懐かしい空港に戻ってきたとき、会いたい人の顔が思い浮かんだ。心の片隅にあった孤独が解けていくように感じた。久しぶりに会わない?とだけ打ち込んで送信ボタンを押した。
僕はこれからもきっと、学生時代のほとんどを過ごしたタイでの日々と、変わり過ぎてしまった街並みの中で生きてゆく人々のことを胸に生きていく。
そんなことを、帰りの飛行機の中で考えた。
All photos by Ryu