はじめて親を離れて旅をしたときのことを覚えているだろうか。
修学旅行でもキャンプでもない。大人が誰もいない、そんな“冒険旅行”のことを。
私にもそんな忘れられない旅がある。今日は、私にとって、はじめて親を離れて旅をした、忘れられない夏の旅路のことを書いてみようと思う。
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夏休みの居場所はいつも、飛騨の祖父母の家だった
photo by pixabay
家業をしていて忙しかった両親は、夏休みに私たち兄弟3人の世話をどうしようか。きっとそんなことに悩んでいたのだろうと、私も働くママになって理解できるようになった。
小学生になるとやってくる長期休暇。働く時間を確保するために、子どもの行き場をどうするか。それは働く親にとっては、まるでひとつの大きなプロジェクトのようなものだ。
母は毎年、夏休みになると、岐阜の飛騨地方にある祖父母の家に私たちを送り出した。都会の名古屋に住む私たち兄弟にとっては、毎年の夏休みに、川や山のある岐阜の祖父母の家に行くのが楽しみだった。
魚釣りを楽しんだり、田んぼで遊んだり、川遊びをしたり。夜には広い庭でバーベキューを楽しんだり。とにかく、めいいっぱい走り回って、泥だらけになれる。楽しい思い出が詰まった、祖父母の家はそんな場所だった。
突然の大冒険の始まりは、母のひとことから
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兄が6年生、私は4年生、弟は2年生になった夏休み。この年も、夏休みの予定はいつもと同じ。でも、行き方が違った。
毎年両親の車で行っていた祖父母の家まで、「今年の夏は子どもたちだけで、電車で行ってきな」と、母に交通費とルートの書いてある紙だけを渡された。
そうして夏休みになると、リュックサックに水筒とお弁当を入れ、学校の遠足に出かけるワクワクした気持ちで、私たち子どもだけの大冒険が始まった。
迷って笑って困難の連続だった、子どもたちだけの旅路
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名古屋の西の方に住む私たちは、最寄りの地下鉄から名鉄の犬山線に乗り継いだ。それからも何回か乗り換えをして、何時間もかけて飛騨金山駅まで行った。
もちろん、はじめての子どもだけの旅路は、紙に書かれた通りの、完璧なものなんかではなかった。
途中、急行列車に乗らなきゃいけないのに、普通列車に乗ってしまって、慌てて降りた駅が無人駅で途方に暮れたり。各務原(かかみがはら)と漢字で書かれた地名が読めずに「かくむはら」と読んで、駅員さんに笑いながら読み方を教えてもらったり。
乗り換えの鵜沼駅で新しく切符を買わなければいけないのに、買い方がわからず無賃乗車してしまい、駅長さんに笑って怒られたり。
兄弟3人のはじめての子どもだけの旅路は、とにかく困難と笑いの連続だった。
それでも、いつも喧嘩ばかりしていた私たち兄弟はこの日ばかりは結束して、迷いながらも、約束の時間にだいぶ遅れたけれど、無事に駅にたどり着くことができた。
駅で心配そうに待っていてくれた、祖父の顔を見た瞬間、涙が出そうなくらい安心したのを今でも覚えている。
電子マネーなんてない、スマートフォンは愚か携帯電話もない、コンビニだって数えられるくらいしかなかった時代だった。今よりもずっと不便だったけど、両親は今の私が子どもにするよりもずっと、私たちに冒険をさせてくれた。
この旅がくれたものは、私の人生そのものだったのかもしれない
photo by Nodoka Kainuma
海外に留学したり、ひとり旅をしたり、海外で就職をしたり。挙げ句の果てには、国際結婚までしてしまったり。
私がまさに大冒険のような人生を送っているのは、もしかしたら、あのとき母から思ったより早く、自立の旅路をプレゼントしてもらって、未知の世界に飛び込み、最後までやり遂げるという達成感を知ってしまったからなのかもしれない。
きっとこれからどんな旅に出ても、1枚の写真も残っていないこの旅路のことを忘れることはないだろう。
あれから30年。もうすぐ子どもがあの頃の私の歳になる。私は子どもの手を上手に離してあげられるだろうか。
夏休みが来るのを恐れながら、今、そんなことを考えている。
cover photo by Nodoka Kainuma