こんにちは!トラベルライターの土庄です。前回は筆者が卒業研究(卒論)のために長崎を訪れた学生時代の経験から”あたらしい旅”の一例として、「旅と考古学」について触れてみました。
一見あまり共通点があるように思われない「旅と考古学」ですが、現地に足を運ぶからこそ、過去の出来事をより臨場感を持って感じたり、現地の文化や歴史、地形の見識を深めたりすることができます。
そこで今回は、近年世界遺産にも登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」をひとつの例として「考古学観光(Archaeological tourism)」の可能性に迫ってみたいと思います。
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考古学観光(Archaeological tourism)とは?
考古学観光とは、純粋なレジャーとは異なり、考古学資料のバックグラウンドまで目を向けて、そのストーリーや歴史を深く理解しようとする文化観光の一種です。
代表的な事例で言えば、青森県の三内丸山遺跡や佐賀県の吉野ヶ里遺跡などが挙げられるでしょう。また近年は考古学で扱う時代やテーマが拡大しており、沖縄県の城(グスク)や和歌山県友ヶ島などの戦争遺跡なども含まれます。
当時の原風景を残したり、一部再現したりしながら、遺跡の隣に博物館を隣接させているスポットも多くあります。考古資料を読み解くことで、当時の暮らしや歴史のストーリーを紐解けて、現代とのつながりを探ることができます。
また、遺跡の認知度を上げることで観光収入を増やし、その収入を原資に遺跡を維持保存していくという好循環を生む狙いもあります。
考古学と旅の親和性について考える
考古学と観光をミックスする「考古学観光」ですが、両者の親和性はどうなのでしょうか?観光とくくると少し幅が狭くなるので、今回は考古学と旅の親和性を考えたいと思います。
鍵となる言葉が「現地」と「学び」でしょう。旅先へ足を運んで、さまざまなインプットを得ながら、時には内省も促してくれる旅。現地に足を運ぶからこそ、リアルな出会いと豊かな学びがあり、言葉にできない旅情を感じることができます。
考古学でも、そんな旅と似た経験ができます。
リアルな資料を見て感じた気づきが、現地をより深く理解するきっかけになり、時には思考を掘り下げながら、当時のバックグラウンドの中で捉えようとします。当時の人の暮らしに思いを馳せながら、その場所の変遷をリアルに感じられるのです。
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産における考古資料の価値
それでは国内における考古学観光の可能性として、2018年に世界文化遺産に登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を挙げてみたいと思います。まず12の構成資産については、以下の通りです。
・外海の出津集落~聖画像をひそかに拝み信仰を続けた~
・外海の大野集落~神道の信仰を装いながら続けた信仰~
・黒島の集落~仏教寺院でマリア観音に祈りを捧げた~
・平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)~禁教時代の潜伏キリシタンの集落の様相をとどめる歴史的景観~
・平戸の聖地と集落(中江ノ島)~殉教地として潜伏キリシタンから崇敬~
・奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺)(五島市奈留島)~人里離れた海の近い谷間に移住~
・久賀島の集落~未開の地で仏教徒との相互関係で守り続ける~
・原城跡(南島原市)~自らのかたちで信仰をひそかに続けるきっかけとなった地~
・野崎島の集落跡(小値賀町)~神道の聖地で信仰を続ける~
・頭ヶ島の集落(新上五島町)~仏教徒の開拓地の指導によりできた集落~
・天草の﨑津集落~漁村特有の形態で信仰を続けた集落~
立派な教会建築が世界文化遺産になっていると予想している方もいるかもしれませんが、じつは長崎の各集落が構成資産に登録されています。それは潜伏キリシタンの信仰が集落ごとに行われることに由来しています。
潜伏のカモフラージュに使われた仏教寺院や神社、指導者の屋敷跡、信仰の終焉を表すとも取れる教会堂まで、一連の歴史の流れやバックグラウンドを読み取れる集落全体が価値ある資産だと捉えられているのです。
潜伏キリシタン(※1)の時代にあたる明治初期までは、自分たちがキリシタンだと表明する人は処罰の対象になりました。そのため文献史料は乏しく、代わってキリシタン墓地などに代表される考古資料が彼らの痕跡となります。
(※1)潜伏キリシタン……約250年の禁教期間、密かに信仰を続けていたのが「潜伏キリシタン」。 一方で、キリスト教解禁後もカトリックに戻らず独自の信仰を保った人々を「隠れキリシタン」という。
考古学観光の事例①~外海の出津(しつ)集落を例に~
集落全体をひとつの名所として考え、歴史の変遷を辿るように巡ってみると、当時の潜伏キリシタンの暮らしや信仰の強さ、ドラマチックな自然を感じることができます。
その良い事例が、遠藤周作さんの作品『沈黙』にも登場する潜伏キリシタンの聖地「外海の出津(しつ)集落」です。
例えば、キリシタンの口頭伝承(オラショ)を授けたと伝わる枯松神社「祈りの岩」や、宣教師が国外追放されたのちも山奥でひっそりと籠った「バスチャン屋敷跡」など、潜伏期の遺跡の数々。
幕府の目が届かない山奥で自らの信仰をひっそりと守る潜伏キリシタンの痕跡が見て取れます。仏教との共存を図りながら浸透したキリシタン文化を垣間見ると、うまく言葉にできない感動が込み上げてきます。
そんな出津集落ですが、明治初期のキリスト教解禁後、フランス人宣教師「マルク・マリー・ド・ロ神父」が現地に赴任したことで画期をむかえます。彼は地域住民の福祉と生活向上のため、さまざまな福祉活動・慈善事業に尽力し、その功績が現在の集落景観を作り上げたのです。
代表的なものが、集落のシンボル「出津教会堂」であり、農地開墾の拠点となった「大平作業場跡」、殖産興業にもつながった「出津救助院」や「旧マカロニ工場」などの建築構造物です。
江戸時代は潜伏キリシタンだった人々が、カトリック・隠れキリシタン・仏教徒の三者になって今でも共存し続けています。そうした共同体の在り方も含めれば、現代まで価値が続いている、極めて珍しい世界文化遺産と言えるかもしれません。
考古学観光の事例②~キリシタン墓地を例に~
外海の出津(しつ)集落は、世界文化遺産の一つの構成資産を取り上げたわかりやすい事例ですが、その一方でもっとミクロな事例として着目したいのが「キリシタン墓地」です。
なかでも先ほどの出津集落に隣接する尾崎集落の共同墓地「尾崎墓地」は、当時の潜伏キリシタンの動向を物語る、とても貴重な考古資料です。
この墓地には、江戸時代中期から近現代に至るまでのお墓が築かれているのですが、その年代を追うなかで、とある史実がわかってきたのです。
それは、キリスト教禁止の高札の撤廃が決まった明治4年(1871年)の前後でお墓の形態に違いが生じているということ。明治4年以前は完全な仏教墓であるのに対し、明治4年以後になるとキリスト教式のお墓が現れます。
しかも、明治4年直後には、仏教式の墓碑にキリスト教の刻印(十字架や洗礼名)を刻むものも現れるのです。ここから推測されるのは、江戸時代(禁教時代)の隠れキリシタンたちは、自らが仏教徒であるかのようにカモフラージュしていたということ。
禁教解禁直後に十字架や洗礼名を刻んだ事実は「キリスト教がようやく公認された喜び」を、まさに祝福しているようです。「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の各構成資産の集落には、まだまだこうした信仰のドラマが眠っているのではないかと考えられています。
研究成果と観光をどうデザインするか
長崎の潜伏キリシタンの歩みを現代に伝えてくれる世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」から、国内の考古学観光の可能性を考えてみました。
過去の歴史が今に生きており、それを読み解くことで、新たな見方が広がる。地域の独自性や文化の多様性のすばらしさが見えてくる。ここまで歴史の中にある原風景と現代の姿が結びついている地域は珍しいでしょう。
世界文化遺産としての認知が広がり、学術的な研究成果が出てきているので、あとはその魅力や価値をどのように着地型観光や文化体験型の旅行としてデザインしていくか。それが重要ではないかと思います。
ディープな魅力を放ち、現代の私たちに気づきをくれる長崎の世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を、ぜひ一度訪ねてみてはいかがでしょうか。
All photos by Yuhei Tonosho