人は挑戦することで成長していく。
……と言われることが多い気がする。そして、思いがけないことが頻発する旅もまた、人を成長させる機会として語られることが多い。
今回はそのような実りあるキラキラした旅とはまったく反対の、何を得るでもない何が変わったわけでもない「ぐうたらする」ことに挑戦した旅について書こうと思う。
ヒマすぎて地面に描いたねこ
「何か」を見つけたくて「ぐうたら」旅してみた
ぐうたら旅に出ようと思った動機は、僕をおそった漠然とした将来への不安である。
大学4年生で就活も終わっており、社会に出る前の浮ついたタイミングだった。
自分の納得のいく形で就活を終えたはずだった。社会人としてもりもり働いて、ぐんぐん出世していってやろうという気概もあった。それにもかかわらず、漠然としていて理由もわからぬ不安がぬぐいきれなかった。自己分析してみても、どこからこの不安がくるのかさっぱりわからなかった。
「自分の選択はこれで良いのか?」という果てない自問自答をくり返した末に、「そうだ!縁もゆかりもない土地でぐうたらしたら何か答えが見つかるかもしれん!!」と思いついた。
人はこれを現実逃避という。
まさにこんな感情でしかなかった
そんな経緯で、「ぐうたら旅」という名の現実逃避をしに、縁もゆかりもない宮城県気仙沼市へ向かった。「目的も、したいことも、すべて手放して気ままに過ごすぞ!」と意気込んでいた記憶がある。膨大な時間とお金をかけて、飛行機と電車を乗り継いでいくコストを払った上でである。
考えが堂々巡りして、意味を見出すことにも疲れ切っていた自分にとって、あえて意味を求めないぐうたらした旅をしたいと思ったのかもしれない。
ぐうたら旅でしたこと
ほとんど何もしてませんでした、というのが結論である。
草むらに寝転がって流れゆく雲をぼんやり眺めたり、見飽きたら気ままに昼寝をしたりしていた。「空ってこんなに青いんや」とか「雲ってフワフワしてんな」とか、見えるものをただただそのまま受け取っている時間が、なぜだかたまらなく心地よかった。
もし重力がなかったら空に落ちていくという妄想してた
観光地をめぐったり特産品を食べに行くといったこともしなかった。
宮城県の名所や名産は今でもわからない。
家から1250キロも離れた土地で、草むらに寝ころんで雲を眺めて、何事もなくふらっと帰宅した。変化や成長を伴うパワフルな旅とは、まったく対極の旅だった。
心のゆとりを生み出す秘訣は「無理せず」ただ「眺める」
どういうわけか、知らない土地で何もせず、ぐうたらしていた時間ほど人生で豊かな時間はなかったという実感がある。
漠然とした不安は当たり前にあり、状況は何も変わらなかった。僕はただその不安を一歩引いた目で、ただ見ていただけだった。そして、当時、それが今は一番ベストなんだろうなとなんとなくだが思うことができた。
意味なんて見出さなくていい
ぐうたらする旅という挑戦が、なぜだか今の僕の価値観に影響を与えている気がしてならない。
不安をあえて脇に置いてみる。よく見ようとせず、ただ眺めるだけにしてみる。ムリに意味を見出す必要もない。ただ見ているという姿勢を保っていれば良い。
今思えば、心のゆとりはこうして生まれるのかもしれない。
おわりに
旅の記事なのに旅らしいことを何もしなかった。ゆえになんともぐうたらな記事になったので、最後に小説家であるカフカの言葉で締めようと思う。
おまえは外出するまでもない。おまえの机にとどまって、耳を澄ませておいで。耳を澄ますまでもない。ただ待っておいで。待つまでもない。しずかに、ひとりでいるがいい。するとおまえに、世界が素顔をのぞかせる。フランツ カフカ「ノート2 掟の問題」
愛すべきぐうたら旅をぜひ。
All photos by みかん