彼らにとっては、信仰を持つことや当然。日常生活の一部。僕自身はとりわけ信仰をもっているわけでもないし、神が一つだろうが八百万だろうが、大きな問題ではない。僕の認識と信仰の絶対的な存在感がぶつかった瞬間だった。
「神は信仰のためにすべてを創造された」
僕はモーリタニアで、とても英語が流暢な青年に出会った時のことを思い出した。
「信仰こそが生きることのすべてだ。腹が減っては信仰ができない。だから動物や野菜をつくった。文字が無ければ、どう祈っていいのか分からない。だから文字をつくられた。神は信仰のためにすべてを創造された」カンペがあるわけでも、冗談を言っているわけでもない。大真面目にこう話していた。
僕の中にヒビが入り、ぼろぼろと崩れさっていく気分だった。(世界には宗教があって、信仰を持っている人々がいる。当たり前だ。当たり前のことじゃないか)
それでも、いざ自分とは異なる価値観を目の前にすると、失礼かもしれないが、正直たじろいでしまった。
価値観のコレクションを壊して、つくって
頭では理解しているつもりでも、理解が追いつかない。その瞬間に、今までの価値観は音を立てて崩れさる。
しかし、いつまでも崩れたままにしてはいられないから、自分なりに咀嚼して、理解して、価値観に新しいコレクションを加えて、急造だけど、自分の拠り所となる価値観をつくりなおす。しかし、それもまたどこかで誰かに不意にぶっ壊される。それをまた、つくりなおして、壊されて。
旅はそんなことの繰り返しだ。
「クソッタレ!尻の穴!」
「Fuck you, asshole!」
直訳すると、「クソッタレ!尻の穴!」そんなこと、誰かに言われたことがあるだろうか。僕はある。イスラエルで、僕はそれに遭遇した。
首都エルサレムには、日本人に親しまれる宿がある。僕が訪ねた時も多くの日本人が滞在しており、それぞれの旅話に花を咲かせた。かたや、何やら物騒な話も。聞いてみると、この宿の周りに住まうガキんちょたちから、突然、石や爆竹を投げられたという話だ。
信じ難い話だったが、事件はエルサレム出発の朝に起きた。宿を出て路地に出たところで、民家の2階から大きな座布団が目の前に大きな音を立てて落ちてきた。
飛んできた方向に目を向けると、10歳前後のガキんちょ二人が、ひょっこり窓に姿を現した。いたずらにしても危険過ぎる。
目の前で砕け散ったのはガラス瓶
大人気ないとは思いつつも、ふつふつと湧きあがる怒りを押さえきれず、中指を突き上げ、僕はまた歩き出した。
「バリンッ!!」
次の瞬間、僕の背後ギリギリで、ものすごい勢いでガラス瓶が大きな音を立てて砕け散った。さすがに背筋がぞっとした。死にはしないだろうけど、大きな怪我になったかもしれない。そして続けざまに飛んできた言葉が「Fuck you, asshole!」
さっきまでの怒りはどこへやら、僕は逃げるようにエルサレムを後にした。非常に後味の悪い最後だった。
幸か不幸か、こんなショッキングな出来事に遭遇してしまった。そして、僕の頭をぐるぐると駆け廻り始めたのは、「僕には何ができる?」という問いだった。
理由なく、ガラス瓶を人に投げつけるなんてことは、普通に考えたらありえない。もしかしたら、エルサレムのガキんちょたちは、前に宿に泊まっていた日本人に何かされたのかもしれない。現実は見た目ほど単純ではなく、正義も、真実も、僕が思っているよりも多様なのだと思う。
夢見た世界は、意外と簡単に手が届いた
photo by pixta
旅をして、夢見ていた世界には意外と簡単に手が届いた。時間とお金さえあれば、手を伸ばせることに気がついた。でも、その世界を見つめる自分自身に、足りない部分がものすごくたくさんあるように感じた。
帰国後、すぐに就職活動に取り組むことになった。僕は誰かに石やガラス瓶を投げられるのは嫌だし、 そういうことを放っておくのも嫌だ。
「アメリカのことが憎くないのか?」あの時、答えられなかった自分も嫌だし。「お前はパレスチナ問題のことなんか何も分かってない」と、言われた自分も嫌だ。
「じゃあ僕には何ができる?」帰ってからも、この問いがぐるぐると頭の中を駆け巡る。そんな時に出会ったのが、テレビ番組のディレクターという職業だった。
仕事を通して、世界と向き合う
OB 訪問で出会った先輩たちの言葉。
「歴史系の番組をつくるには、原爆とかアウシュヴィッツとか、そういう歴史的な出来事に自分だったらどう向き合うのか?っていう主観が問われる。そこが、もろに番組に反映されるから」
そんな仕事そのものが、「足りない自分」を補ってくれるのではないかと思った。
番組制作を通して、この世界の歴史や、人や、「僕には何ができる?」という問いに向かい合っていきたい。
僕にガラス瓶を投げつけてきたエルサレムの子どもたちが 抱えていたであろう問題に立ち向かえるかもしれない。
そう思った。
思い出すのは、世界一周最後の日のこと
世界一周最後の日。僕は台湾に居た。
ホステルで一緒に泊まっていたアメリカ人、ドイツ人、韓国人、シンガポール人、台湾人、そして日本人。多国籍な組み合わせで夜の台北を練り歩き、最後はホステルで、僕の帰国の無事を祈って皆で乾杯した。
ものすごく単純なのかもしれないけど、そんなふうに何かを分かち合える世界は、素晴らしいと思う。
photo by pixta
見知らぬ人に出会って、自分のことを話したり、誰かの話を聞いたり。それは、決して争いの種になるのではなく、その度に新しい自分に出会え、新しい考え方や生き方を覗き見るための種となる。
大好きな「into the wild」という映画に、「Happiness only real when shared」(分かち合ってこそ、幸せは本当になる)という言葉がある。
そんな世界をつくりたい。
世界一周の経験が、テレビ業界でディレクターとしてドキュメンタリー番組をつくりたいという覚悟を決めさせた。
ディレクターという仕事は、「旅するように生きる」職業だ。自分がおもしろいと思う番組をつくるために、自分が会いたいと思う人のところへ行って話を聞き、自分が行きたいと思う場所に行く。きっとこの生き方は、自分にぴったりだと思った。
人間は、自分が知っている中からしか、 何かを選ぶことはできない
人間は、自分が知っている中からしか選べない。だからこそ僕はこれからも、一歩を踏み出し、様々な人に出会って、言葉に耳を傾けて、自分の中に、様々な選択肢や可能性の種をストックしていきたい。
ただ一度の人生、せっかくなら自分を最大化したい。
一つの想いが、はっきりと輪郭を持って、将来、実現したい目標をつくり出してくれた。
世界一周に出たい!でも勇気が出せない。そんなあなたへ
いかがでしたか?
今回の世界一周ストーリーを掲載している書籍では、15名の感動ストーリーだけではなく、一緒に本を作成した世界一周者50名のお土産話やアンケート、世界の瞬間PHOTOなど世界一周経験者の想いが詰めこまれています。
「世界一周して人生が変わる?」
これは、あなたが本当に実感できるかどうか分からないかもしれません。ただ、少なからず私たち50名の人生は、世界一周がきっかけで変わりました。
この想いをあなたにも感じて欲しい。そしてこの本をきっかけに、旅に出てくれたらもっと嬉しいです。
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