政治、経済、歴史、そして最新の流行が見事に融合した、世界有数の都市・ロンドン。バッキンガム宮殿、大英博物館、ウエストミンスター寺院、ビックベン、ロンドン塔……。
街全体に世界的に有名な「見どころ」が点在しており、正直何日あっても回りきることができません。
18世紀イギリスの詩人のサミュエル・ジョンソンは、「ロンドンに飽きた者は人生に飽きた者だ。ロンドンには人生が与えうる全てがあるから」という名言を残しました。18世紀の時点でロンドンは、人々を魅了する一大都市だったんですね。
さて、そんな大都市ロンドンの中心地にありながら、静寂に包まれた、ロンドンの中でも最も古い建築の一つがあるのをご存知でしょうか。
数多くの興味深い伝説を残した、11〜12世紀に十字軍活動で活躍したテンプル騎士団がイングランド本部として建設した「テンプル教会」。映画「ダ・ヴィンチ・コード」で一躍有名になった教会です。
テンプル騎士団の歴史を学んでいけば、この教会に、そしてこの教会があるロンドンという街に一層興味が湧くこと間違いなしです。
テンプル教会への行き方、その歴史
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テンプル教会はロンドンの中心地(シティ・オブ・ロンドン)の西部に広がる、テンプルと呼ばれる法曹界地域内にあります。
ロンドン地下鉄のディストリクト線、サークル線が交わるテンプル駅が最寄駅のため、比較的交通の便も良いです。テンプル駅で下車し、地上に出るとテムズ川を背後にして、目の前に緩やかな坂が現れます。
その坂の頂点まで上がると、目の前に妙に豪華な建物・王立裁判所が現れます。(さすが法曹界エリア)右に曲がりしばらく歩いていくと、奥に下り坂が続いている小さなゲートが右手に現れます。
ここをくぐり歩いていくと、突然円形の教会と石畳の広場が現れます。
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ここがテンプル教会です。テンプル教会は12世紀後半、先述したテンプル騎士団がイングランドの本部として建設しました。
この教会はイングランドでは珍しい、円形のロマネスク様式で建設されました。(有名なケルン大聖堂など華やかなステンドグラスを特徴とした天へと高くそびえるゴシック建築とは対照的に、厚い壁、太い柱、小さめの窓が特徴です)
円形の教会は、テンプル騎士団発祥の地のエルサレムにある聖墳墓教会を模して作られました。
テンプル騎士団の歴史
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テンプル騎士団の歴史は、11世紀の第一回十字軍まで遡ります。もともと十字軍は、イスラム王朝にアナトリア半島(現在のトルコ)を支配された当時の東ローマ帝国皇帝が、ローマ教皇に救援を求めたことに端を発します。
ローマ教皇は軍を出す大義名分に、イスラム教国からの聖地・エルサレムの奪還を掲げます。
皆さんご存知のように、エルサレムはキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の聖地として古来から「誰のものか」と争われてきました。7世紀からはイスラム教の支配下に入っており、その支配は上述の第一回十字軍まで続きました。
1099年にこの第一回十字軍がエルサレムになだれ込み、ムスリム、ユダヤ人を大虐殺し、キリスト教の「エルサレム王国」が建国されました。
以降ヨーロッパから巡礼者が多数増えますが、同時期にはシリアからパレスチナにかけて、同様の十字軍国家が多数建国され、中東域内で情勢が不安定になります。
そこで巡礼者の保護、聖地エルサレムの防衛として「テンプル騎士団」が結成されました。
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後に教皇からのお墨付きの「公式の」騎士修道会となり、とにかく聖地維持のためには何らかの貢献をしたいとヨーロッパ貴族からの多くの寄進を受けます。テンプル騎士団は財政的に裕福になり、また教皇から国境通過の自由や課税の禁止など多くの特権を与えられるようになりました。
一方で軍事的にも大きな働きをし、第二回十字軍(1147〜1148年)の時にはフランス王の支援に奮闘し、その後のイスラム勢力との戦いでも大きな功績を残し、その強さと勇猛さは伝説的でした。
またテンプル騎士団の伝説といえば、彼らはエルサレムでの最初の本拠地で、イエス・キリストに関する「何か」を発見したと伝えられてきました。
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イエス・キリストが「最後の晩餐」で使用した聖杯、聖櫃、あるいはイエスが架けられた十字架を発見したのかと言われていますが、それは今でもわかっていません。(その伝説をミステリー仕立てにしたのが「ダ・ヴィンチ・コード」です)
しかし大きな特権と莫大な資産は、同時に多くの反感を買います。
一時キリスト教の支配下に置かれたエルサレムも、13世紀には再びイスラム勢力に奪還されますが、テンプル騎士団は特権と財産に守られていた為ほとんどの軍事活動を停止するようになりました。
13世紀、フランスのフィリップ4世はイギリスとの戦争などによる自国の財政難に対し、テンプル騎士団の豊かな財産に目をつけます。
何とか財産の没収(略奪)をするために、「彼らはキリスト教の騎士団として異端である」と理由をつけて騎士団そのものを壊滅させるように計りました。
1307年10月13日、フィリップ4世は突然何の前触れもなくフランス全土のテンプル騎士団員を逮捕し、自分の息のかかった教皇、高位聖職者達による出来レースのような裁判で、悪魔崇拝や男色行為など不当な罪名を100近くかぶせ、罪を「自白」するまで拷問にかけました。
騎士団の活動も全面的に禁止することも言い渡されました。
この日が金曜日であったため、このエピソードが有名な「13日の金曜日」のルーツになったと言われています。
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資産の没収を終えると、投獄されていた騎士団員は、フィリップ4世により口封じのため、1314年パリのセーヌ川の中州・シテ島で生きたまま火あぶりにされました。
彼らの名誉は19世紀にやっと回復され、最終的に1907年、ドイツの歴史学者が「彼らの罪は事実無根で、フィリップ4世により財産狙いで壊滅させられた」と明らかにしました。
現在でもカトリック教会の公式見解でも、テンプル騎士団に対する異端の疑いは完全な冤罪とされています。
テンプル騎士団はエルサレムで一体何を見つけたのでしょうか…ミステリアスな彼らはフリーメーソンや、ちょっとオカルトじみた団体も、「自分たちのルーツはテンプル騎士団にある」と今でも言っていたり…
では、このミステリアスな騎士団が、ロンドンでの本拠地としたこのテンプル教会の中はどうなっているのでしょうか。