工女たちはここで暮らしてました
女工哀史でも知られるように、生糸生産は若い女性の労働力に支えられていました。官営富岡製糸場は自ら生糸生産をするだけではなく、ここで技術を覚えた女性が各地の製糸工場で指導的役割を果たす事も期待されていました。
親元を離れた彼女たちは寄宿舎で共同生活をしながら、激しい労働と技術習得の日々を送りました。それにしてもすごいですね、指示が漢字でかいてあるなんて。
養蚕の技術改革も
生糸の生産を増やすには蚕の繭の改良も欠かせませんでした。健康な蚕を育てるために高山社では「清温育」、田島弥平は「清涼育」と呼ぶ換気と温湿度管理による近代的な養蚕を進めていきました。
蚕室は窓を大きくとった建て方になっています。
まとめ
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繭を1年中通して生産するには、季節をずらして蚕を孵化させる必要があります。そのために蚕の卵を冷蔵保管する目的で利用されたのが風穴です。
岩の間から夏でも摂氏2~3度の冷風が吹き出す風穴は天然の冷蔵庫でした。荒船風穴は中でも一番大きい風穴で今も冷風が吹き出しています。
日本の近代化の担い手だった富岡製糸場は第二次世界大戦後もオートメーションなど技術革新につとめ、自動繰糸機は世界に輸出され、今も世界の絹産業を支えています。
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