空中都市として知られる南米・ペルー、マチュピチュ遺跡で10月26日(日本時間27日未明)、福島県 大玉村と友好都市協定を結び、式典が開かれた。
マチュピチュ村はこれまでも世界各地から友好協定締結を求める声が届いていたが、締結をしたのは大玉村が世界で始めてだ。
その背景にはおよそ100年前、野心を胸にペルーへ渡った一人の日本人男性の姿があった。
マチュピチュ村、初代村長は実は日本人
故 野内 与吉氏は大玉村で生まれ、裕福な家庭にもかかわらず南米での事業成功という夢を抱き、21歳の時にペルーへ渡った。
それからは農園で働いたが契約内容と実地の状況の違いから1年で辞め、米国やブラジル、ボリビアなどを放浪していた。その後、ペルーへ戻り、ペルー国鉄に勤務。会社専用電車の運転や線路拡大工事に携わる。
7つの職を持つ男
1929年頃からマチュピチュでの生活を開始。多くの業績から村民からは「7つの職を持つ男」と呼ばれていた。
川から水を引いて畑を畑を作り、村に水力発電をつくり電気をもたらした。また、温泉を発見し、手先が器用だった氏は故障した機械なども修理をしていた。
その後、1935年にはこの村で初の本格的木造建築である「ホテル・ノウチ」を建て、郵便局や交番などとして部屋を無償で貸し出し、このホテルを中心に地域は大きく発展。
スペイン語の他に先住民の言語であるケチュア語、英語も喋れた氏は現地のガイドも行っていた。
村民から絶大な信頼を受けていた氏は1939〜1941年の間、村の最高帰任者である行政官を務め、1941年にマチュピチュ村が正式に誕生。日本人でありながら初代マチュピチュ村の村長として任命された。