世界中にはさまざまな紛争があります。平和な状況がいつまでも続くとは限りません。争いごとが起こらないようにするためにも、過去の紛争から何かしらのヒントが得られるかもしれません。
今回は1995年に終結した、ボスニア紛争をめぐるツアーを紹介します。
そもそもボスニア紛争とは?
具体的にツアーを見ていく前に、ボスニア紛争を確認しておきましょう。ボスニア紛争とは1992年~1995年、バルカン半島にあるボスニア・ヘルツェゴビナ(ボスニア)で起きた紛争です。3年にわたる紛争により、少なくとも約20万人が命を落としました。
ボスニアにはボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人の3民族が居住しています。いずれの民族も南スラヴ語派に属するスラヴ人ですが、宗教が異なります。ボシュニャク人はイスラーム教、クロアチア人はキリスト教カトリック、セルビア人はセルビア正教を信仰しています。
ボスニアは1991年まで、旧ユーゴスラビアを構成する一共和国でした。旧ユーゴ時代はそれぞれの民族に対して配慮がなされ、仲良く暮らしていました。1984年にはボスニアの首都、サラエボで冬のオリンピックも開催されました。
しかし経済の悪化、政情の不安定化、国際環境の変化により旧ユーゴスラビアは厳しい状況に追い込まれます。1991年に、旧ユーゴを構成していたクロアチアとスロベニアが独立を宣言。やがてボスニアの中でも独立を目指すボシュニャク人、クロアチア人と独立反対のセルビア人との間で亀裂が深まっていきます。
1992年、セルビア人の反対を押し切るようにボスニア・ヘルツェゴビナは独立を宣言。やがて、ボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人との間で陣取り合戦のような内戦が繰り広げられました。
周辺諸国の介入や和平案の頓挫から紛争は長引くごとに。1995年11月のデイトン合意によってボスニア紛争は集結しました。
山からビルから攻撃された
Photo by Nitta Hiroshi
ボスニア紛争をめぐるツアーは、首都サラエボのラテン橋近くにあるインフォメーションセンターからスタートしました。最初に車で向かったのはサラエボ市内を見渡せる山。
ボシュニャク人と敵対したセルビア人は、サラエボ市内を取り囲むように山に大砲などの重火器を置きました。
Photo by Nitta Hiroshi
大砲はサラエボ市内に住むボシュニャク人やクロアチア人を狙ったもの。時には市場に直撃し、数多くの市民が亡くなりました。いつ山からの大砲に当たって死ぬか、その恐怖はいかばかりでしょうか。
Photo by Nitta Hiroshi
ガイドによると、山に居住していたボシュニャク人はセルビア人軍によって追われるか、殺されるかの二者択一とのこと。また水源もセルビア人軍が押さえたので、市民は水を確保するのも大変だったとのことです。
Photo by Nitta Hiroshi
山から下り住宅地に入ると、無数のお墓が広がっています。これはボスニア紛争で亡くなった人々のお墓です。埋葬も命懸けで、夕方に行われたとか。新しい墓石が何とも言えません。
Photo by Nitta Hiroshi
屋根付きの豪華な墓地を見つけました。こちらはボスニア・ヘルツェゴビナの初代大統領アリヤ・イゼトベゴヴィッチ氏の墓地です。「独立の父」を称えるために立派に作られたということ。
しかしガイドは触れませんでしたが、ボシュニャク人兵を指揮したのもイゼトベゴヴィッチです。ボシュニャク人兵の被害にあったセルビア人やクロアチア人は、彼の墓地を見て何を思うのでしょうか。
Photo by Nitta Hiroshi
ツアーでは訪れませんでしたが、サラエボオリンピックの跡地も墓地に変えられました。跡地はスナイパー、セルビア人軍にとって狙いにくい場所だったので埋葬地として選ばれたとか。何ともいえない不思議な光景です。
Photo by Nitta Hiroshi
さてツアーはサラエボ市内の中心部に来ました。ここでスナイパー通りを走ります。筆者は後日、バスターミナルに向かう合間にスナイパー通りに寄りました。
紛争中、スナイパー通りではスナイパーがビルに隠れて、通りを歩く人々を狙い撃ちしていました。子どもも例外ではありません。とは言え、食料を得るためには外に出ざるを得ません。人々は死を覚悟して外に出たのです。このようにボスニア紛争の特徴は兵士だけでなく、一般市民もダイレクトに狙われた点にあります。