弾丸で向かった冬の高知。
そこで出会ったのは、穏やかな気候とゆるやかな時間の流れ、美しい景色。そしてやさしい人々。
その出会いがもたらしてくれたものは、間違いなくいまの僕の生き方につながっている。
桂浜から見た雄大な太平洋
怪物から逃げるように
転職して数ヶ月、当時の僕は激務に追われていた。人手不足を理由に、ほとんど未経験の状態から突然管理職として新拠点を任されることになったのだ。
毎日早めに出社し、終電まで残業。休日には上司から電話がかかってきて、鬼のように詰められた。
仕事に忙殺され、心身ともに摩耗しきっていた冬のこと。
「一緒に高知に行かない? 」と妻が言った。
妻は神木隆之介くんのファンで、当時朝ドラの「らんまん」の主演を務めた彼のトークショーが、物語の舞台の高知県で開催されるというのだった。
それを聞いて、「行きたい」という気持ちと、休みなんて取れるのかという心配が、同時に浮かんできた。
でも……。
自身の「推し活」に僕を誘ってくれた妻の気持ちが嬉しかった。それに高知はまだ未踏の地で、興味がある。そして、いまの僕は少し、仕事から離れたほうがいいのかもしれない。
いろんな思いが交錯して、僕は高知旅行を決行することにした。
なんとか調整をして連休を作り、上司に嫌な顔をされながらも、僕は妻とともに電車に乗り込んだ。仕事という怪物から逃げるように。
途中、鞄の中で一応持参した社用携帯が震えた気がしたが、無視をした。
いざ高知へ
瀬戸大橋を越えて
岡山で特急「南風」に乗り換え、本州と四国を繋ぐ瀬戸大橋をゆく。
特急「南風」
車窓には瀬戸内海がどこまでも広がり、空と海が溶け合うような美しい風景に、心が洗われるようだった。途中、工場地帯が見え、空に昇る煙の揺れるさまに僕は少しのあいだ心を奪われていた。
瀬戸内海に浮かぶ工場地帯
四国に入ると、景色は山あいへと変わる。深い森、田園、古い街並み。冬の少し枯れた感じが、旅情を誘った。
海を越え、山を抜ける電車の旅は、まだ目的地に着いていないというのに、僕の心を解きほぐしてくれた。
ここは日本の「どん詰まり」
ローカル線に乗り換えて、いよいよ高知市内へ。
降り立った瞬間に感じたのは、冬なのにどこか温かくて、やわらかい空気だった。
レトロな切符入れ
ゲストハウスに向かうと、陽気なオーナーが出迎えてくれた。手続きを終えると、オーナーが日本地図を広げて高知を指差した。
「高知は日本の『どん詰まり』にある場所。他の県と違って、どこかへ行く途中で通過することがない。つまり、高知は来ようと思わないと辿り着けない。だから、こうしてわざわざ来てくれただけで、高知の人たちはみんな嬉しいんです」
おおー!と妻と二人で歓声を上げた。なんて素敵な考え方……!
その言葉は、僕をはっとさせた。ここに立っているのは、自らの意思でやってきたということ。いまの忙しさに流されるだけの日々のなかで、なにかを「選んだ」感覚は久しぶりだった気がした。
太古の静寂と、桂浜の夕景
初日の夜に神木くんのイベントに参加し、残りの日は高知を観光することに。
神木隆之介くんのイベント
二日目は大自然を浴びる旅。展望デッキ付きの土佐くろしお鉄道に乗り、海風を受けながら安芸市へと向かう。
土佐くろしお鉄道は展望デッキ付き
海沿いをゆく
目的地は「伊尾木洞」。
住宅街に出現する入り口から暗い洞窟を抜けると、シダ群落が一面を覆う幻想的な緑の世界が広がる。
住宅地に突如出現する洞窟
ここは、約300万年前の地層の隆起や海蝕を繰り返してできた洞窟と渓谷。その圧倒的な自然の中に立つと、太古の静寂を感じられる。
夏ならもっと緑が深いのかもしれないが、冬枯れの木々に降り注ぐ光はやわらかくて、時間の流れが穏やかだった。
苔が覆う、圧倒的な大自然
やわらかい木漏れ日
高知市に戻って、次は桂浜へ。坂本龍馬の銅像が立つことでも有名な景勝地。
桂浜
ちょうど時刻は夕方。
太平洋に沈む夕陽が、空と海を鮮やかに染める。やがて紫色へと移ろうそのグラデーションは、いつまでも眺めていたい景色だった。
新しい日本の夜明けを目指した龍馬は、どんな思いでこの夕陽を見つめていたのだろう。いつの時代も夕陽は美しかったのだと思うと、なんだか不思議な気持ちになる。
伊尾木洞の大自然と桂浜の夕景。時代を超えてそこに在り続けるものを前にして、僕は自分の悩みや迷いがちっぽけに思えた。
太平洋に沈む夕陽