旅人になった日
無茶で無謀だったあの旅を振り返った僕は、ふと気がついた。
「というか、一人でインドを半月も歩いただけで結構すごくね?」
のちに旅好きの方々に聞くと「インドはレベル高いよ。一人旅で最初に行く国じゃない」と、驚かれた。
これまで国内の旅ですらほとんどしたことがなかったのに、いきなりインドに行けてしまった自分。
これは結構褒めてもいいかもしれない。
他にも思い返してみれば、案外大胆なこともしていた。
最初に降り立ったコルカタでは飛行機が午前3時に着くと、あろうことか僕は空港のベンチで朝まで寝ていた。
いくら空港内とはいえ、初日から深夜のインドで眠りこけるなんて、我ながらどんな精神してるのやら…。
朝になって空港を出ると、腹が減ったと思って何の躊躇いもなく、いきなり屋台でカレーを食べたし、
タクシーはなんか怖いからと、これまたよくわかってないのに「なんとかなるやろ」とたまたまやってきたバスに飛び乗ったり、
寝台列車の一番安いクラスの切符を拙い英語でなんとかゲットし、ぎゅうぎゅうの乗客の熱気に包まれた車内の固い席に寝そべって、十何時間と揺られたり、
お金がなくなってきた時には、ジャパニーズ・アーティストを名乗って路上で折り紙パフォーマンスでもして、小銭を稼いでやろうと目論んだり、(流石に無謀すぎたので、一個だけ折った鶴を同じドミにいた西洋人にタダであげた)
そして、『深い河』ことガンジス川では、現地の人と一緒に沐浴をした。
ただの沐浴ではない。
頭のてっぺんまで、僕は川に浸かったのだ。
生活排水や工業排水、遺灰、そして死体。
すべてを流し、汚濁に満ちたあの聖なる川に。
旅に出る前から、僕の心を掴んで離さない文章があった。
これは『深い河』のとある場面。
インディラとは、暗殺されたインドの首相、インディラ・ガンディーのことで、作中にもその事件が登場する。それについて、上記のようなやり取りが出てくる。
インドでは、首相でも大富豪でも庶民でも貧民でも、その遺体は皆同じようにガンジスに流される。
その価値観、倫理観というものが、僕には信じ難かった。
でも、そういう国なのだ、インドとは。
そんな理解が難しい未知の世界をこの目で見つめるべく、僕はバラナシに行き、ガンジス川のほとりに立った。
目の前を流れる川は激しく、ミルクティーのような色に濁っていて、しかし静謐だった。
ガンジス川。めっちゃミルクティー色
これがガンジスか……。ついに見ることができた。
でも、きっと見つめるだけでは何も分からない気がする。
気がつくと、僕は服を脱ぎ、川へ入り、そして頭のてっぺんまで身を沈めた。
近くにいたインド人が「Oh!」と叫んだのが聞こえた。
顔を出すと、みんながこちらを心配そうに見ていた。
僕は笑顔で「アイムオーケー」と言った。何がオーケーなのか。
この時の僕は、旅で露見した自分の嫌なところをすべて忘れて、ただ生身の自分で川の中に立っていた。
読書が好きで、小説がきっかけで旅に出て、そして小説と同じ景色をこの目で見た。
僕はこの日、本の旅を飛び出して、本当の旅人になったと思った。
ガンジスに昇る朝日
この二日後、僕は高熱を出して宿で寝込んだ。
宿のオーナーが心配してバナナをくれた。
後からこのエピソードを人に話すと「よく熱だけで済んだね」と呆れられた。
確かにあんなところに全身で潜ったら、やばい病気に罹りかねない。
今思えば、無茶苦茶なことをしたものだ。
でも、後悔はしていない。むしろ、よくやった自分、とさえ思っている。
ここぞという時に図太い神経と行動力を発揮できる自分がちょっと好きになった。
宿のオーナーがくれたバナナ。予期せぬ時に人の優しさにふれるのも旅
活字の海を越えて
インドに行った人はきっぱり2種類に分かれるという。
もう二度と行きたくない、という人。
インドおもろい!また行きたい!という人。
実は僕は後者だ。
実際この翌年、僕はまたインドに行っている。
しんどかったとは書いたが、それでも旅をやめられなかった。
なぜなのか。
初めての一人旅。
旅に出れば何かが変わる、なんていう期待は打ち砕かれた。
旅に出ると、どこまで行っても“自分”が付き纏ってくる。
嫌な部分を否が応でも突き付けられて、自分がとことん嫌いになる。
それでも、嫌で嫌で嫌になるその中に、思いもしなかった自分が突然浮かんでくる。
その瞬間の自分は、たまらなく面白い。好きになれる。
そして気が付いた。
旅に出れば何かが変わるんじゃなくて、変わるきっかけを得られるだけ。
突き付けられた自分を受け止めて変わるか、無視して変わらないか。結局自分次第なのだ。
好きな部分は大切にして、嫌いな部分は省みる。
自分を知って、日々の生活や生き方や考え方を見つめ直す。
その時になって初めて、旅に出た人は変われるんだと思う。
僕はまだまだコンプレックスにまみれていて、社会でスムーズに生きるのが難しい。
でも、そんな嫌いな自分をもっと見たい。
その中に突如出てくる好きな自分にもっと出会いたい。
物語の旅では見えなかった「ありのままの自分」を知りたい。
日常の中で悩んだり迷ったりする時、決まってその衝動に駆られる。
だから僕は、活字の海を越えて、旅を続けていく。
ガンジス川に全身まで浸かる僕
All photos by Satofumi