クラシック音楽って何となくとっつきにくい、格式高いイメージがあるでしょうか?
数年前のドラマ「のだめカンタービレ」のヒット、日本人フィギュアスケート選手の躍進で、クラシック音楽は随分と親しみやすいものになったと感じます。
そして2017年、直木賞と本屋大賞の2つを受賞した恩田陸さんの「蜜蜂と遠雷」が、文字だけなのにクラシック音楽の世界を楽しむことができると大きな話題になりました。(私も読みましたが、登場する楽曲を知らなくても面白かったです!)
とっつきにくく感じるとはいえ、偉大な作曲家達も生前は恋をして、旅をして、お金に困ったりと人間くさい人達ばかりでした。
今回は彼らの名曲と、知られざる恋のエピソードとゆかりの場所を共にご紹介していきます。
プロポーズのお相手は、あの…!? / モーツァルト(オーストリア、ウィーン)
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オーストリア・ザルツブルグ、直訳するとドイツ語で「塩の城」。岩塩で財をなしたこの街で、1756年に神童・ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは生まれました。
ザルツブルグには今でもモーツァルトの生家が残っており、彼が使用していたヴァイオリンや直筆の楽譜などが残っています。音楽好きにはたまりませんが、うっかりすると見落としてしまうくらいの家です…。
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モーツァルトの父、レオポルトも音楽家で、姉のナンネルも幼い頃からピアノを演奏し、モーツァルトは生まれた時から音楽に親しんできました。
しかしモーツァルトは姉のピアノ(正確にはチェンバロ)を一度聞いただけで同じように弾いてみせたり、わずか5歳の時に作曲をしたりと人並み外れた才能を見せ始め、「神童」と呼ばれるようになりました。
姉弟共に素晴らしい音楽を持っていたため、両親は頻繁にヨーロッパ域内で演奏旅行を実施します。二人の神童の才能を披露するため、そして父親としては自身が宮廷音楽家としてより良い就職先を見つけるためだったと言われています。
1762年の秋、演奏旅行中の一家はウィーンを訪れ、ハプスブルグ帝国の女帝・マリア・テレジアに招かれシェーンブルン宮殿でマリア・テレジアと、その娘、後のフランス王妃、マリー・アントワネットの前でピアノの演奏を披露します。
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ウィーンのシンボル・シェーンブルン宮殿は、歴代のハプスブルグ家の君主が離宮として使用し、女帝マリア・テレジアの元で完成します。柔らかい黄色の外観が印象的ですが、この黄色は「マリア・テレジアイエロー」と呼ばれています。何と今では賃貸住宅として一部貸し出されていて、ここに住むこともできるとか…。
演奏後モーツァルトは観客に向かってお辞儀をした後、滑って転んでしまったところに、マリー・アントワネットが自らモーツァルトに手を差し伸べて助けてあげました。
そこでモーツァルトは何と、彼女に向かって「僕のお嫁さんにしてあげる」とプロポーズをしたというあっぱれな肉食系男子エピソードが残っています。
その後皆さんご存知のように、マリー・アントワネットはフランス王家に嫁ぎ、そして許されない恋をし、フランス革命勃発後断頭台の露と消えます。
モーツァルトも21歳の時に、美しいソプラノ歌手のアロイジア・ウェーバーという女性に恋をし、彼女を売り出すために何曲も作曲をしますが、結局フラれてしまいます。(モーツァルトはその後、アロイジアの妹のコンスタンツェと結婚をします)
モーツァルト自身はいつも冗談ばかり言ってなかなか本心を見せない人柄だったようですが、その秘めた心から生み出された数々の名曲は、何百年もたった今でも私たちの心を震わせてくれています。
代表曲
アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク
交響曲第40番
フィガロの結婚
エリーゼって…誰⁉︎ / ベートーヴェン(ドイツ・ボン)
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印象的な出だしの「交響曲第5番・運命」、年末に1万人が大合唱する「交響曲第9番」を作曲し、そして夜中になると音楽室の肖像画が動き出すと小学生達を震え上がらせたルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンは1770年、ドイツ西部の町・ボンに生まれました。
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ベートーヴェンの一家も宮廷歌手として生計を立てておりましたが、祖父が亡くなると、元来お酒好きの父親の歌手としての収入も途絶えがちとなり生活は困窮を極めます。
幼い頃から音楽の才能を見出されたベートーヴェンは、父親からその才能を当てにされて虐待まがいのスパルタ教育を受け、一時は音楽を嫌いになったと言われています。
16歳の時にベートーヴェンはウィーンに旅をし、そこでかねてより憧れていたモーツァルトを訪問しています。しかし多忙なモーツァルトの指導は非常に短い時間だったようです。
ベートーヴェンは「耳が聞こえない音楽家」として知られていますが、その兆候が現れたのは20代後半だったとのこと。28歳の時には最高度難聴者となり、音楽家としては致命的なハンディキャップを抱えたことに絶望し、遺書までしたためました。
絶望の淵から脱したベートーヴェンは、今までピアニスト兼作曲家から作曲家として専念し、名曲「運命」もこの時期に作られました。
さて、ベートーヴェンの「名曲」といえばピアノ曲「エリーゼのために」も有名です。色々なアレンジを加えられて、現代の日本の歌謡曲の原曲にもなっています。
実はこの「エリーゼ」は誰なのか諸説あり、未だに特定されていません。ベートーヴェンが愛したテレーゼ・マルファッティという女性の書類から本曲の原稿が発見されており、彼女が「エリーゼ」だという説が最有力です。
ベートーヴェンはテレーゼに、1810年プロポーズをしていますが断られてしまいます。(か、悲しい…)
ではなぜテレーゼが、エリーゼになったのか…ベートーヴェンが自らつけたこの曲のタイトルは「テレーゼのために/Fur Therese」でしたが、ベートーヴェンの字が汚かったことが原因で、採譜者が読み間違えたことが原因とされています。
40歳頃に彼は全聾となり(本当に何も聞こえなかったのかは不明)、またしても絶望の淵に立たされますがこの中でも彼は傑作「交響曲第9番・歓喜の歌」を創り上げます。
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大きなハンディキャップを抱え、苦悩し続けた果てに創り上げられた「歓喜の歌」は人々に大きな感動与え続け、愛する人のために創った「エリーゼのために」はピアノを習う人にとって憧れの一曲となりました。
世界で一番美しい、失恋の曲 / ショパン(ドイツ・ドレスデン)
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トリノ五輪で日本フィギュアスケート界に初めてオリンピックの金メダルをもたらした荒川静香選手、ソチ五輪で伝説のフリー演技を披露した浅田真央選手。実は二人ともフリー演技の前に行われるショートプログラムでは、ショパンの曲を使用していました。
荒川静香選手は「幻想即興曲」、浅田真央選手は「ノクターン」。かたや怒涛の指運びをする疾走感のある曲、かたやうっとりするような「夜想曲(ノクターン)」という名前通りの曲。
この全然イメージが異なる2曲を作曲した、「ピアノの詩人」と呼ばれるフレデリック・ショパンは、1810年ポーランドで生まれました。
ショパン一家は音楽に長けており、父はヴァイオリンとフルート、母はピアノと、幼い頃からたくさんの音楽に触れてきました。ショパンは6歳からピアノを本格的に習い始め、あっという間に師匠の腕前を超えてしまい、7歳で作曲までするようになりました。
彼の故郷・ポーランドは歴史的に3度に渡って強国によって分割され、国土を全て失ってきました。国民は何度も独立のための反乱を起こしており、特にショパンが生まれた時代もロシアによって支配されていました。
ショパンはワルシャワ音楽院で本格的に音楽を学び、音楽の都・ウィーンで華々しく音楽家としてデビューを飾ります。活躍の場を更に広げるために、1830年11月2日、西ヨーロッパ方面に旅立ちます。
旅立ちから程なくして、ポーランドで十一月蜂起という最大の武装蜂起が勃発。しかし翌年9月ロシアによりワルシャワが制圧され、武装蜂起が失敗に終わったことをショパンはパリで知ります。
この時の愛国者として反乱に参加できなかった苛立ち、敗北への怒りが、「革命のエチュード」という名曲を生み出しました。
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1835年、失意の中、ザクセン州(ドイツ)のドレスデンを通ったショパンは、旧知のポーランド貴族・ヴォジンスキ伯爵一家に再会します。伯爵一家の娘のマリアは16歳となり以前に会った時よりも美しく成長し、ショパンは瞬く間に恋に落ちます。
翌年にはプロポーズ(早っ!)をし、マリアも求婚を受け入れ、母親の伯爵夫人も一応認めますが、マリアが若すぎること、そしてショパンは生まれつき身体が弱く、特にその年の冬の健康状態は最悪で結婚は無期限の延期となります。
結局ヴォジンスキ一家が、ショパンの健康状態への懸念から婚約を破棄します。
ドレスデンを去ることになったショパンは、マリアに素晴らしく美しい曲をプレゼントしました。それがショパンの代表曲「別れの曲」です。ショパン自身も「こんなに美しい曲は書いたことがない」と言ったほど。
お別れすることに決めた人から、こんなプレゼントをもらったら、演奏するたびいつまでも泣いてしまいそうですね…。ショパンにゆかりの深いドレスデンには、彼を記念してショパン通り(Chopin Strasse)と命名した通りがあります。
そのドレスデンは第二次世界大戦中、大空襲を受け、町は壊滅的な被害を受け、町のシンボルだった聖母教会(フラウエン教会)は瓦礫の山と化します。しかし冷戦終結後、東西ドイツの和解の象徴として、1990年再建運動が呼びかけられ多くの支援を受けました。
そして2005年、ついに聖母教会はオリジナルに忠実な形で再建され、「戦争の象徴」だった教会は、「平和と和解の象徴」へ生まれ変わりました。
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ショパンは39歳で、愛する祖国の地を踏むことなく亡くなります。最期は旧友、実の姉も駆けつけ皆に見守られながら旅立ちました。
わずか39年という短い人生の中で生み出した数々の名曲は、私たちを時に楽しく、切なく、そして奮い立たせるような不思議な力を持っています。