こんにちは、TABIPPO編集部です。2020年9月14日(月)から2020年10月12日(月)まで「#私たちは旅をやめられない」コンテストを実施しています。
応募媒体は「note」。指定の#タグと共に、自由な表現で “海外への旅” への思いを投稿いただくコンテストです。
同時に、クリエイターによる作品とコンテストの受賞作を掲載する特集もスタート。様々な表現での、それぞれの思いをぜひご覧ください。
今回は、フォトグラファー・物書きとして活動をしている古性のちさんの作品をご紹介します。古性のちさんの作品は、「癒し」×「タイ旅行」がテーマの#THAILAND賞の作品例となります。
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心臓が張り裂けそうで痛い。
あまりにも乱暴に体の中を暴れるものだから、その振動でチケットを握り締めた手が小刻みに震えはじめている。
気がする。
2016年、ほぼ初海外の行先を、世界一周に決めたわたしは、長年「お金がたまったら世界一周へ行くの」と周りに言いふらしてきた自分自身を、心底恨んでいた。
「古性さん、世界一周行くんだって」がいつの間にか「古性さん、2016年6月に会社をやめて世界一周に行くんだって」に進化を遂げ、気づけば出発の3日前に急遽購入した、ぴかぴかのバックパックを背中に背追い込んで成田空港に呆然と立っていた。
なぜ、こんな事をしているのか、出発の10分前になっても自分自身との折り合いがつかなかった。
今すぐ帰りたかった。それでも後戻りはもはや、できなかった。
不慣れな手つきで搭乗チケットを渡し、私は自分との約束をかなえるために、緊張でもつれる足をなんとか地面に貼り付け、日本を離れた。
人間の頭が覚えていなくても、ふいにふわっと香る匂いや味に、思い出や感情が閉じ込められている。プルースト現象と呼ぶらしい。
体が忘れてしまっても、心の中に映像ごと閉じ込められていて、カギがあれば、いつでも呼び覚ますことができる。思い出は情景だけでなく、その時の気持ちも連れてくる。
まさにバンコクで出会ったあの味には、あの時のわたしが閉じ込められている。
フィリピンでの語学学校生活を終え世界一周の2カ国目、タイ・バンコク。相変わらず私は今にも泣き出しそうなくらいの大きな不安を抱え、入国審査を受けていた。きいた事のない言葉と見覚えのない文字、匂い、空気、じっとりと湿る背中、騒音、笑い声。その全てが心をざわつかせる。
もともと心配性な性格なのも合間って、異国はあまりにも刺激が多すぎた。疲弊した心と身体に追い討ちをかけるような東南アジア特有のじっとりとした暑さ。身体中の水分が奪われていく。
額から滴る汗を手で拭うと、簡素なドリンクの売店とふと目が合った。近寄って読めないメニューを眺めていると、絵から察するに、どうやらミルクティらしかった。
「これひとつ」
あまりの喉の乾きに耐えきれなくなり、勇気を出して指を指すと、真っ黒に日焼けした女の子が手慣れた手つきでアイスミルクティを作ってくれた。
それは知っているミルクティよりもずっとずっと鮮やかなオレンジ色をしていて、不気味だった。うわあ、と顔が歪む。
それでもカラカラな喉の乾きには勝てなかった。恐る恐る震える指先でストローを吸い上げてみる。
途端、口の中に広がる極甘のコンデンスミルクと、バニラの風味。渋めの紅茶は氷でキリリとしまっていて、鼻に良い香りが抜けていく。
(え。おいしい…?)
緊張していた体に染み渡っていく、頭がくらくらするほどの甘さ。今まで飲んだことがあるわけではないのに、何故だか泣きたくなるほどの懐かしさ。
喉の乾きを抜きにしても、美味しかった。旅に出て初めて、純粋に美味しい、と感じたのがこの得体の知れないオレンジ色をした飲み物になるなんて。
すると、どうしてだか、あのまま日本に置き去りになってしまっていた自分の心が、初めてやっと旅を受け入れて、この場所までやってきた。そんな不思議な気持ちになった。
以来、タイ滞在中のお供はずっと、タイミルクティだった。東南アジアを旅する中で、タイに戻ってくる度に、初めて飲んだ売店でミルクティを買い続けた。心が折れそうになった時も、嬉しいことがあった日も、タイミルクティを飲むと不思議とリセットされて「まだ頑張るぞ」と思えた。
何故だろう。今でも理由はわからない。だけれど旅人達にこの話をすると「わかる」と笑ってくれる。「大袈裟だけどなんか、東南アジアの味噌汁的な感じだよね」と言われたときには、わたしもわかる!と笑ってしまった。
それから何気なく日本に帰ってきて、いつの間にか日本から出られなくなって、タイに最後に訪れてから、もう2年経つ。
時がどんなに流れても、例えば私の記憶や体が旅を忘れてしまったとしても。きっとあの味がわたしを覚えてくれている。飲むたびにきっと思い出す、怖くて不安で、今すぐ帰りたかったあの頃のわたしのことを。旅に出る人生を選んでよかった!と結局、最高に自分に感謝したわたしのことを。
タイミルクティはまさに、わたしたち旅人達のソウルドリンクであり、私にとって、決して無くしてはいけない記憶のカギなのだ。
早くまた、わたしはあの笑っちゃうくらい甘いコンデンスミルクと、あの日の記憶に会いに行きたい。
All photos by 古性のち
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