あなたは旅の思い出は何か持ち帰りますか?
自分は旅をすると毎回その思い出を持ち帰りたくなる、きれいな景色や空気、旅先の人との会話、食べたごはんなど。そのどれもが一瞬で過ぎ去っていくからこそ、少しでも形にして残しておきたいと思う。
私にとって、その手段はカメラとリュックだ。

なぜカメラなのか?
旅の途中でふとカメラを構えると、心の中が一瞬で静まる。 風や波の音、街のざわめき、夕日に照らされた街の風景、夜景などすべての景色がひとつの瞬間に凝縮されていく感覚が好きだ。それまで何か悩みやモヤモヤしたことがあってもカメラを構えている時間はゆっくりと自分だけの時間が流れている。
シャッターを切るたびに旅の思い出がひとつまたひとつと、自分の心のどこかに刻まれていく。「きれいだな」と感じた景色も、「ちょっと切ないな」と思った空も、「楽しそうにはしゃいでるな」と感じた仲間も、その時の自分の感情と一緒にフィルムやデータに焼きついていく。
カメラを通すと、普段なら見過ごしてしまうような小さな瞬間にも気づける。海沿いの町を歩いている時に見つけた風に揺られる魚の干物、ベンチに座ってでぼんやり空を見上げる人、急な通り雨のあとに虹がかかった街角、商店街で買い物をしている風景それらはどれも、誰かにとってはただの風景かもしれない。

でも、私にとっては確かに“旅の一部”であり、旅の思い出である。あの場所で車を停めてシャッターを押したのは正解だった、偶然入ったご飯屋さんおいしかった。など、 旅を終えて撮影したデータを見返すと旅を思い出すことができる。
なぜリュックなのか?
そして、旅の終わりに私は“モノ”を選ぶ。どんなに軽い旅でも、最後には必ず小さな何かをリュックに詰めて帰る。
それはお土産屋さんで買うものとは限らない。ふと立ち寄ったカフェのショップカード、観光案内所でもらったパンフレット、雑貨屋で見つけたキーホルダー、旅先で購入したご当地のお菓子や食料品など。ひとつひとつにその場所と時間の記憶が宿っている。
旅を終えて帰宅したあと、リュックを開ける瞬間が好きだ。
中から出てくるのは、ただの小さなモノたちなのに、手に取るとその場所の空気や音、会話までが鮮やかによみがえる。本当は荷物を片づけなくてはいけないが、ついつい手が止まってしまう。少しばかりの旅の余韻に浸るこの時間が大好きだ。
私は、旅を重ねるごとに、モノを買う量は減ってきた。だけど、モノを“選ぶ時間”は確実に増えてきた。
それは、ただの記念品ではなく、その土地の空気をまとった“証”のようなものを選びたいからなのかもしれない。ひとつひとつ手に取ることで、この場所で感じた温度、この街で出会った人の言葉、旅する中で見た風景。そんな「記憶のかけら」をひとつひとつ手のひら残していく。
旅先で出会うモノには、物語がある。作った人の手の跡、選んだときの気持ち、そしてそれを持ち帰った自分の思い。それらが全部重なって、ようやく“旅の記録”になる。
旅の思い出を振り返る
自分の中で写真は「心の記録」であり、モノは「手の中の記録」である。どちらも、私にとっては旅を“もう一度思い出し味わうための扉”だ。
「あの道を歩いたとき、少し風が強かったな」「このカフェで飲んだコーヒーの香り、今でも覚えてる」そんな記憶が、まるでカメラのシャッターの音のように蘇ってくる。

人はきっと、“思い出”という形ではなく、“感情”を持ち帰っているのだと思う。そしてその感情を呼び戻してくれるのが、写真であり、リュックの中の小さなモノたちなのだ。
旅をしていると、思い出はどんどん増えていくけれど、 時間が経つとどれも少しずつ薄れていってしまう。でも、ふと写真を見返したり、リュックの奥や机の上にある古い旅先のパンフレットや神社のお守りなどが出てくると、あの日の自分がそこに戻ってくるようだ。旅の記録は、アルバムの中だけにあるわけじゃない。自分の中に、静かに積み重なっていく。
カメラの中にあるのは“過去の私”で、リュックの中にあるのは“未来の私への贈り物”なのかもしれない。
旅の終わりに、私はよく「何を持ち帰っただろう」と考える。それは、お土産の数でも、写真の枚数でもなく、「その旅で自分がどう感じるか」なのかもしれない。
旅の様子をカメラで撮ることにより心を整え、モノを選びリュックに詰めることで自分と対話し、帰ってから見返すたびにその記憶にまた励まされ毎日を過ごす糧になる。
そうやって、旅は私の中で何度も形を変えながら生き続けている。
それは、私なりの旅のしめくくり方。何を見て、何を感じて、何を大切にしてきたのか。その全部が詰まったカメラをリュックに入れて、私はまた次の旅を計画して向かっていく。
自分の中で写真は記録ではなく、心の鏡。リュックの中身は、旅のかけらたち。
今日もどこかで、私の中の旅がそっと息づいている。