編集部

こんにちは、旅を広める会社である株式会社TABIPPOが運営をしている「旅」の総合WEBメディアです。世界一周のひとり旅を経験した旅好きなメンバーが、世界中を旅する魅力を伝えたいという想いで設立しました。旅人たちが実際に旅した体験をベースに1つずつ記事を配信して、これからの時代の多様な旅を提案します。

 

真っ直ぐ突撃は無理です・菱の門

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photo by machu.

大手門を入るとあっちへ曲がったり、こっちへ曲がったり敵を翻弄するように作られていますが、この菱の門も二の丸の入口を守る要です。安土桃山時代の様式を残した城内で一番大きな門です。

 

壁や塀に小さい穴が並んでいます

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photo by Maarten1979

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photo by paranoidnotandroid

塀に開けた小さい穴は鉄砲狭間や矢狭間といい、攻めてくる敵を待ち伏せてここから攻撃するためのものです。

 

自然の石をそのままの形で積んだ石垣

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photo by neco

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photo by neco

一見乱雑に見えますが野面積みという積み方でとても丈夫な石垣です。

 

千姫も住んでいました

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photo by tiseb

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photo by neco

大阪城が滅んだ時、豊臣秀頼の妻だった千姫は祖父徳川家康の手で救い出され、その後本多忠刻に再嫁します。本多家では悲劇の姫を思い、遣わされた化粧料10万石を使って千姫のための新しい御殿を作ったりして慰めました。

千姫が29歳の時に本多忠刻が亡くなり、姫は江戸に戻りますが姫路城での生活は束の間の幸せの時だったと伝えられています。

西の丸は千姫の住まいで、化粧櫓は休息所として好んで使った部屋だそうです。長局のたくさんの部屋にはお付きの侍女たちが住みました。

 

まとめ

城内には「播州皿屋敷」で有名なお菊井戸もあります。1枚、2枚・・・9枚、10枚目がなくて身を投げたと言われる井戸です。戦争はなくても悲劇の歴史はあったようですね。

 

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