7月のよく晴れた日、夏と言う言葉がよく似合う青空の下で、長野県にある乗鞍へ向かう電車に揺られていた。僕は旅をしていた。
ビルばかりだった街並みはいつしか緑豊かな風景に変わり、わずかに開いていた窓からはどこか懐かしい匂い、そして蝉の声が近づいては遠のいたりを繰り返しながら僕の身体をゆっくりと運んでいった。
電車とバスを乗り継ぎながら目的地へと向かう。田園風景は次第に山深く、変わりやすい天候は晴天から一転、さっきまで激しく響いていた蝉の鳴き声をかき消すほどの強い雨を携えて乗鞍の自然は僕を出迎えてくれた。
宿についたのは、2本の時計の針が頂点を少し下がりはじめた頃。
今日から3日間、乗鞍という土地に滞在をすることになるのだが、この激しい雨の中で濡れた身体が体温を沈める中で、少し不安を感じていた。すぐにその不安は杞憂だったことが判明する。
この日は明日からのスケジュールにあたっての注意事項や軽い挨拶、説明を受けた後、食事へ。
激しく降り続けていた雨は嘘のように静まり、暗くなった空を見上げると満天の星空が顔を出していた。真っ暗で静かな世界であまりの美しさに息をのむ人たち、歓声をあげる人たち。それぞれ1つの時間、同じ空の下で誰もが口に出さずとも頭をよぎった言葉は、「美しい」ということだったのは間違いないように思う。
2日目の朝は、鳥のさえずりで目を覚ます。
乗鞍の朝は東京に比べると、今が夏の真っ只中だということを忘れさせてくれるほどに涼しい。朝食はサンドイッチとホットコーヒー。
朝食を囲むカウンターでは今日のスケジュールで登る乗鞍岳とそこに生息するライチョウの話が聞こえてくる。
乗鞍岳は3,000mを超える高さを誇りながらも、初心者でも登れる山だ。
それでいて日本百名山に選定されているのだから、期待が膨らむ。
視界を遮る高層ビルも、行き場を失ったむせ返るほど熱くなった熱風もなく、青空を見上げながら雄大な山々の隙間を縫うように歩んでいく。
手を伸ばせば届くかもしれないと思うほどに低い雲は、目の前に広がるまるで絵画のような世界に陰影を与え、刻々と表情を変えていく。思うよりも軽やかな2本の足は疲れを知らないかのように前へ前へと動いていく。
ライチョウとも出会うことができた。一定の距離はありながらも、逃げることはないようだった。
穏やかな性格なのだろうか。絶滅危惧種であるライチョウに出会うことはとても貴重だそうで、もしあなたも出会うことができたなら幸運かもしれない。
そして僕らは剣ヶ峰を目指して足を進めていく。
標高が上がるにつれて、景色もまた表情を変えていく。
眼下には権現池。青空が零れ落ちたような鮮やかな青い池だ。
火口湖、いわゆるカルデラ湖と言った方が聞き馴染みがあるのかもしれない。
さらに頂上を目指して進む。
頂上では程よく時間を過ごし(この日は多くの登山者、年配の方から中学生のグループまでいたから驚いた)、標高は3,000mを超えているにも関わらず、比較的気軽に登れて、多くの方と雄大な景色を共有することができるのはここならでは。
山小屋もあり、気の良い店主におすすめをされたカレーうどんをいただく。
食欲をそそるカレーの香りは鼻腔をくすぐり、少し濃い目の味付けは今まさに求めていたものだった。
山を後にする頃には霧がかかりはじめ、改めて山の天候の急変化に驚く。
乗鞍は様々な空模様を見せてくれるようだ。
日が沈み、空の青に深みが増してきたかと思えば鮮やかな紫へと変化し、やがて夜が訪れた。
3日目の朝も鳥のさえずりで目を覚ます。
相も変わらず光が美しく、山の木々は緑の影を落としていく、滞在先であるゲストハウス雷鳥。
温泉設備もあり、広い湯船に浸かりながらゆっくりと、そしていつもより少し長く身体を沈めていた。昨日の疲れも多少あったが、今日は乗鞍の色んな場所を巡るのだから、と。
朝食を済ませ、皆で入り口に集まる。
そこから移動して、景観保護の活動の説明を白樺で囲まれた自然の中で受けていく。
一見美しいようにも思える花々は、じつは外来種。
年々範囲が増していき、本来の生態系を崩してしまっているという。有志が集まり、この時期になると手作業で除去作業を行う。
僕らもその活動に参加をして、改めて炎天下の除去作業がどれほど過酷なものかを思い知った。繁殖力の高い外来種が乗鞍の景観を変えてしまいつつある。
その後の昼食は、そば舎「合掌」。
石臼でひかれたそば粉を使い、乗鞍の山々から湧き出る水を使い生まれるそばは喉越しが良い。歴史を感じられる合掌造りの空間で、郷土料理である「とうじそば」をいただいた。出汁の深い旨味の詰まったつゆで温めながら味わうそばは、この夏の暑さの中でもするすると箸が進むほどの一品。
これまでの旅の話に花を咲かせながら一時の休み時間を過ごした。
午後からは近くの農園へ向かう。
地元の方に開放しているという農園やホップの栽培畑、ヤギの放牧場をまわりもあっという間に時間が流れていく。
水の清らかさを知り、土を踏みしめ、夏草の匂いに懐かしさを覚える。
徐々に日が傾くのを感じながら、乗鞍の雄大な自然に触れていく。
時折見せる入道雲に胸が高鳴る。
夕食はお勧めのアビーロード。
とにかくボリューミーでなカレーピラフ。
1日中動き回ってぺこぺこなはずのお腹も膨れるくらいの量に幸せを感じる。
レトロで温かみのある空間を見渡す先には染まっていく空がチラリと。
刻々と近づく旅の終わりに少し感傷的になってしまった。
とうとう東京へと帰らなければいけない朝を迎え、惜しむように少し散歩をした。
このトンネルを抜けたら、今回の旅はとうとう終わりを迎えてしまう。
薄暗いトンネルをゆっくり歩きながら旅の一片一片が頭の中を横切っていく。
緑と青い空、白い雲。
夏の空気をまとった風が、少し焼けた肌を撫でるように吹き抜けていくのがなんだか心地よい。木々が色づく頃の景色に少し想像を膨らませながら、また戻ってこようと心の中で思いながら乗鞍を後にバスへ乗り込んだ。
All photos by tsunekawa