日本列島は活発な火山活動のおかげで鉱物資源に恵まれてきました。中でも世界遺産石見銀山は16世紀から17世紀にかけて大量の銀が産出され、当時の世界で産出されていた銀の三分の一は石見の銀だったそうです。
フランシスコ・ザビエルは、スペイン人が「銀の島」と日本の事を呼んでいると手紙で書いてますし、当時の世界地図には「銀鉱山」と石見銀山が書き込まれています。
労働者と環境にやさしい鉱山でした
石見銀山では鉱石鉱床に硫化物をほとんど含まないため鉱害問題がほとんどおこらず、また精錬に必要な大量の燃料も環境にやさしいものでした。
燃料の木炭は地区外に設けた御囲村で作られましたが、原料の樹木は土石流などが起こらないように伐採場所が厳しく管理され、森林の再生が繰り返されました。
鉱山労働者の保護のために坑内環境の改善、鉱山病の研究が行われました。鉱山病で仕事ができない者やその子供に米を支給したり、健康のために味噌の支給、梅の栽培も行われました。
お代官様も奥女中も寄進しました・羅漢寺
鉱山で亡くなった人々やご先祖様を供養するために江戸時代に建てられました。当時の大森代官の働きかけで田安家の奥女中も寄進したそうです。
特徴のある石の反り橋や、中には必ず知り合いの顔があると言われる五百羅漢など見どころが多いです。
昔は厳重に柵で囲まれていました・銀山柵内
何しろ生産しているのが貴重な銀ですから、江戸時代初めまでは銀山周辺は柵で囲い、出入りを厳重に監視したそうです。昔の街並みが残っています。