第3章:熊本編
地球の裏側で起こっていた本当のこと

夕方の羽田空港 photo by Risa Yamada
そんなドタバタの旅も終え、私は無事に日本へ帰国した。しかし同時に、それは――夢から醒める瞬間でもあった。
羽田空港に降り立った直後、弟から一通のLINEが届く。「姉ちゃん、帰国した? 今、電話できる?」弟がそんな連絡をしてくるなんて、嫌な予感しかしなかった。私はすぐに電話をかけ直した。
「……もう、モカが亡くなりそう」
一瞬、何が起きたのかわからなかった。周囲の雑踏がすっと遠のき、耳の奥でキーンという音だけが響く。
私が世界を旅していた頃、熊本の実家ではモカの容体が徐々に悪化していた。亡くなる10日前から体温は下がり、ほとんど食事をとっていなかったという。両親も弟も旅を止めたくなくて、最後まで黙っていた。もし知っていたら、すぐに帰っていたからだ。「家族みんな私の旅を邪魔したくなかった」って。そんなに応援されていたなんて、少しも気づいていなかった。

君の影を探す photo by unsplash
自分の鼓動がドクドクと速くなるのを感じたが、頭のなかだけが、いやに冷静だった。だから、次の瞬間、空港のカウンターに向かい、熊本行きのチケットをとった。君に会いにいく“最期”の旅。まさかこんな形で今回の旅が終わるとは思わなかったし、現実はどこまでも残酷だった。
そうして、実家にたどりついたのは5月7日。モカはもう私の声に反応もせず、手足も冷たくなっていた。変わり果てた姿に、私は言葉を失った。次の日は仕事があり、東京へ戻らなければならない。胸が張り裂けそうな想いでモカを残し、再び飛行機に乗った。
Day9|運命の日——君が亡くなった日。
5月9日。君が亡くなった日。
翌日、再び休暇をとり、熊本へ向かった。しかし、私が実家に着いたときには、すでにモカが息を引き取ったあとだった。「間に合わなかった……。大好きなモカの死に目に会えなかった」その現実を受け止めきれず、私は両親を、そして自分を責めた。
事実を知らせなかった理由は、旅を止めたくなかったからだけではない。元気な姿しか知らない私に、弱っていくモカの姿を見せたくなかったのだ。「あんたじゃ、きっと耐えられなかったと思うから」と、母はそういった。

亡くなってしまった大好きな君 photo by Risa Yamada
「猫一匹で大袈裟な」と思うかもしれない。けれど、当たり前の存在がそばにいることが、どれほど幸せなことかを知る。それは彼女が大事な家族の一員だからだ。
辛いとか、しんどいとか、そんな言葉では言い尽くせない。虚無感や寂しさ、悲しみ。そんなものを全部まとめたような感情。”喪失”をそんなふうに感じた。
君は、私の人生に彩りを与えてくれた。私は君に、いったい何をしてあげられたのだろう。こんなに飛行機に乗っているなら、もっと頻繁に帰って会っておけばよかった。「なぜ、なぜ……」と、自分を責めつづけた。大好きな旅さえも「しなければよかった」と思うほどに。
君はいつも私の帰りを待っていてくれた。私の旅を見届けるように。君のお腹に手を当てる。ほんの少しだけ、ぬくもりを感じる気がした。けれど、その亡骸にさえ“サヨナラ”を告げる時間が、刻一刻と迫っている。このまま離れたくない。
Day10|君を送る最後の日。

君の体を包んだたくさんの花 photo by Unsplash
5月10日。君のお葬式の日。
神奈川にいる弟も熊本に帰ってきた。それぞれの想いを胸に、久しぶりに家族4人がそろう。たくさんの花が君の体を包んだ。みんなで火葬スイッチを押す。君を送るとき、母が膝から崩れて号泣していた。そんな母の背中を、私もとても切ない気持ちでさすった。
でも、君の遺体はたしかにここにあったのに、私はなぜかもう魂はいないような気がした。自由な君のことだから、すでにどこか遠くへ旅立ってしまっているように感じたからだ。
火葬場で、君の生き抜いた命の証が煙とともに空に舞う。そんなとき、スタッフの方が温かいアップルティーを差し出してくれた。その甘い香りと優しい心遣いにとても救われたことを覚えている。車で泣き腫らした母にもティーカップを渡す。そのときに母から病気のことを聞き、私はときの流れの残酷さを知った。そして、いつのまにか自分が”いい大人”になったことを実感する。
スタッフの方が、遺骨を小瓶に集めてネックレスにできると教えてくれた。今は「お別れのメモリアルグッズ」といって、想いを形に残す人も多いという。だから、母と一緒にクッションやマスコットを作ろうと決めた。記憶の中で思い出になった君と、もう一度会える。絶望のなかに、一筋の希望が見えた。

空に舞った君の生き抜いた命の証 photo by Risa Yamada
After Days|思い出になった君——それでも募る想い
メモリアルグッズになって、また戻ってきてくれた君。手のひらに収まるその小さな姿は、たしかに「そばにいる」と感じさせてくれる。
それでも、2年半以上経った今でも、私は本物の君が恋しい。ずっと君に会いたい。
いつも君が日向ぼっこをしていた実家の縁側が、今はとても静か。太陽の下で、君の背中が熱を吸収して、グングンと体温が上がっていく。月の明かりのもとで、君はギラギラと光る瞳で外敵をとらえていた。
君は太陽、君は月。
君は希望であり、君は絶望でもある。
君は私に、たくさんの思い出をくれたね。
言葉は話さなかったけれど、その小さな体で家族を守ってくれていた。
猫は死ぬ姿を見せたがらないという。都合がいいけれど、だから最期に間に合わなかったのかもしれない。そんなことを考えると、目頭が熱くなった。もしも次の人生があるなら——生まれ変わっても、また君と同じ時間を生きたい。

実家の縁側で日向ぼっこをする君 photo by Risa Yamada
ときどき、東京の街中や旅の途中で、君に似た猫を見かける。そんなときには思わず、「モカ!」とよんでしまいそうになる。
だって、自由気ままな君のことだから、今も世界のどこかでのんびりと散歩でもしてるんじゃないかって。本当は、まだ君は生きていて、あのできごとが全部嘘で、夢だったのではないかと。
それは残された者のささやかな願いと幻想でもある。だから、いつも無意識のうちに君の影を探してしまう。癖や習慣のように。まるで君の面影を探し続け、さまよう旅人のように。
終章:エピローグ
Day……|君の時間は止まったままだ。でも、私のなかで生き続けている
君の時間は止まったままだ。私たちの記憶のなかで思い出になった。でも、私のなかで生き続けている。そしてこれからもーー。

変わりゆく旅への想い photo by Risa Yamada
20代。好きに、自由に生きる。人と違うように生きることがモットーだった。でも、30代になるとガラッと状況が変わる。とくに、この1〜2年で急に現実をつきつけられ、大人にならざるを得なかった。いろんな人の想いがあって、旅ができていたのだ。
私にとって2023年は、コロナも少しずつ落ち着き、お金や体力、そして家庭にも余裕があった。あの頃は、まだ自分が“若者”で、実家で子ども扱いされても許されるような環境があったからだ。だけど今は、母の病気や、夫の激務が重なり、以前のような自由気ままな旅はできなくなってきている。だから今は、あの旅を後悔していない。あのときじゃないとできない旅だったからだ。

君と始まる新たな旅 photo by unsplash
ーー深夜便の飛行機。私は一人。
目を閉じると、君のちょこんとした後ろ姿が浮かぶ。君は猫で、一緒に旅をすることはできなかったけれど、今はこうして旅の相棒としてそばにいてくれる。君が隣の座席にいて、目を瞑っていることを想像したら、また新しい旅になりそうだと思わず笑ってしまいそうになった。
そんなときは、カバンのポケットに忍ばせた君を取り出し、手のひらのなかでそっと握る。君は今、小さなマスコットになって、どんなところにも連れて行けるようになった。猫のときも小さかったけれど、さらに小さくコンパクトな君。楽しかった君とのたくさんの思い出とともに、これからも一緒に旅をしようと思う。
ハワイ、ロサンゼルス、ニューヨーク、ロンドン、そして熊本。世界一周の旅は、私にとって生涯忘れることができないであろう旅となった。そして今も、私の中で生きつづけている。おそらくこれから先も、ずっと──