2015年は日本にとって終戦70年の節目の年ということを知っていますか?この第二次世界大戦の最中、ポーランドにはヒトラー率いるナチス軍によって大量の人が殺害され、「アンネフランクの日記」でも有名になった場所があります。それがアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所です。
名前は教科書で見たことがあっても、どんな所で何を知れるのか分からない人も多いですよね。私も学校の勉強が苦手だったので知識不足でしたが、ここで日本人ガイドに教えてもらいたくさんのことを学べました。
日本の広島県にある原爆ドームと並んで、”同じ過ちを二度と繰り返さない”を目的とした世界遺産の中の「負の遺産」に登録されているアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所。多くの人に行って見て感じてもらいたいと思うので、ここで紹介します!
どんなところ?
1939年6月14日に初めて人が収容され、それから約4年間で110万人ものユダヤ人がここで殺されました。なぜ主にユダヤ人が殺されたのかというと、第一次世界大戦で負けたドイツは多大な経済負担を強いられました。
それの責任転化なのです。ナチス軍にとってみれば、ユダヤ人1人がいなくなれば、原石=ドイツ人が1人生き延びれるという考えのもとに行われた虐殺だったのです。
収容された人はヨーロッパ中から集められたユダヤ人が圧倒的に多いのですが、障害を持った人やジプシー、ホモセクシャルの人など、彼らが「労力にならない」と考えた人達が各国からここに収容されました。
その収容する人数が多くなったため、第一収容所であるアウシュビッツだけでは足らず、第二収容所となるビルケナウ収容所を造りました。
なにが行われていた?
彼らはナチス軍に「新しい生活をする」と言われ、ものの数十分で荷物をまとめて家を出されました。大きい木箱のような列車でアウシュビッツ強制収容所に着くと、医者が左右に人を分けます。そのうち75%もの人がそのままガス室送りになり殺害されたため、今現在も誰が収容されたかは全員把握できていません。
彼らはシャワーを浴びると言われ衣服を脱がされ、狭い地下室のような場所に詰め込まれると、上から害虫駆除用のガス缶が投げ入れられました。20分ほどで全員が亡くなる強い物でした。
その後、遺体から髪は絨毯に、金歯などは銀行で換金し、1人の人としてではなく”金が何グラム”のように”物”として記録が残されました。
残り25%の健康だと判断された若い男性は過酷労働をするために、幼い子供は生体実験用として生かされました。しかし、労働と言っても午前中に掘った穴を午後埋めるなど、なんの意味もないことをさせられていたそうです。
食事は1日麦茶のようなスープ、野菜スープ、パン1つしか与えられず、トイレも1日2回、シャワーは月1回。衛生面など何も整っていませんでした。そのためほとんどの人がナチス軍の思惑通り3ヶ月以内に亡くなりました。
実際に見ることに意味がある
ポーランドのアウシュビッツ強制収容所は、当時使われていたレンガ造りの収容所にたくさんの品が展示されています。新生活をすると言われて来たため、鍋やヘアブラシ、手鏡やパンプスなども残されていました。
驚くのはその展示されている量です。靴1つをとっても、全員分ではないのに積み上げられた靴の量は想像を絶するものがあります。
そして、私達も今も使っているニベアのクリーム(青缶)が残されています。つまり、そんな遠い昔の出来事ではないのです。
「誰を救ったわけでもないが、私は人を傷つけなかったことが最大の誇り」
これは収容されても生き残った人が残した言葉です。助けたわけでも、守ったわけでもなく、必死にあの状況下を気持ちを押し殺して生き延びたことが伝わってきます。